【ギリシャ文明の歴史②】アテネと民主制、都市国家(ポリス)

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ハナハナ
ハナハナ

アテネの歴史について解説します!

今回は、「【ギリシャ文明の歴史②】アテネと民主制、都市国家(ポリス)」について解説していきます。

これから、世界史を勉強する学生さん、社会人になって教養として世界史を学びたいと考えている方などに向けて。

細かい用語や年号は省き、ざっくりと流れが分かるように、解説しています。

ポリスの成立と概要については、以下の記事で解説しています。

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この記事は、こんな人にオススメ!

・世界史を学びたいと思っている。

・ざっくりと、世界史の流れを知りたい。

・世界で起こっている出来事、ニュースが理解出来るようになりたい。

アテネと民主制、都市国家(ポリス)

アテネは、民主主義の原点と言われています。

都市国家アテネが成立した当初は、他のポリスや地域と同じように、一部の権力者(貴族)が政治を独占していました。

アテネの商工業が発展して、市民が経済力を高めると、自ら武器を購入して重装歩兵隊として国のために戦うようになりました。

今までは、貴族が重装騎兵隊として兵を率いていましたが、市民も命をかけて国のために戦っているのに、貴族だけが政治を独占してズルいという考え方が生まれ、参政権を求めて身分闘争が始まったのです。

それでは、民主制完成までの流れを、アテネの歴史と共に、①〜⑤の段階に分けて解説していきます。

①ドラコンの成文法(紀元前7世紀後半)

ドラコンはアテネの伝説的な立法家と呼ばれており、最初の成文法を作成しました。

今までは、貴族が裁判権を独占していました。

一部の貴族しか知らない不文法(口伝えで、文章として残されていない慣習)を、貴族の都合の良いように解釈して運用していました。

成分法は、木板に血で書かれており、今まで一部の貴族しか知らなかった法律が、文字を読める市民全員が分かるようになりました。

成分法ができたことで、貴族が好き勝手に法律を解釈することができなくなり、徐々に市民の政治的な発言力が高まりました。

ドラコンの成分法の特徴として、犯罪に対しての罪が重かったことが挙げられます。

例えば、借金が返済できない人は債務奴隷になったり、軽微な犯罪でも死刑になったそうです。

②ソロンの財産政治で参政権拡大(紀元前6世紀頃)

ソロンは、貴族と平民の調停者として改革を行った人物です。

多くの法律を作り、アテネの民主主義の基礎を築いたと高く評価されていますが、その中でも重要な2つの事柄を紹介します。

②-1.セイサクティア(重荷下ろし)

セイサクティアとは、借金を帳消しにして、債務奴隷になった人々を解放する法律です。

当時のアテネでは、自らを借金の担保としてお金を借りる人が存在し、借金が返せず債務奴隷になる人も多くいたようです。

債務奴隷になるのは平民で、お金を貸していたのは財政力のある貴族ですので、貴族と平民の格差は広がり、アテネが目指していた民主制とは程遠い状況でした。

そこで、セイサクティアによって借金を帳消しにして、債務奴隷を解放することで、平民の力を回復させようとしました。

また、債務奴隷に繋がる自らを借金の担保としてお金を借りることは禁止されました。

②-2.財産政治(納税額による等級分け)

財産政治とは、納税額により人民を4つに等級分けして、段階的に参政権を与える法律です。

財産によって参政権が与えられると聞くと、現代を生きる私たちからすると、とても不平等に感じると思います。

しかし、貴族が政治を独占していた当時の状況から考えると、お金さえあれば参政権が得られるというのは大変画期的で、市民の参政権は大幅に拡大しました。

4つの等級が決まると、各等級から100人ずつ選出されて、400人評議会が設置されました。

また、全市民が裁判に参加でき、官人に対して弾劾することが可能になりました。

③ペイシストラスの僭主政治

続いては、ペアシストラスの僭主政治です。

ペアシストラスは、ソロンの改革後に武力でアクロポリスを占領し、一時的にアテネの実権を握りました。

自らを僭主(正統な血統によらず非合法に独裁政を樹立した支配者)と名乗ったため、僭主政治と呼ばれています。

独裁下では貴族も市民も関係無いため、結果的に市民の立場が向上しました。

彼は独裁者でしたが、温和で民主的な態度を貫きました。

小農民や商工業者を保護し、小規模自作農や商工業者の生活や生産活動は、良好なレベルで安定していたそうです。

哲学者のアリストテレスは、ペイシストラトス時代こそ、アテナイの全盛時代である、と主張していたそうです。

ペイシストラトスにより、アテネの経済力は高まり、文化事業や貿易にも力を注ぎ、国力は高まりました。

④クレイステネスの陶片追放(紀元前6世紀末頃)

続いては、クレイステネスの陶片追放です。

ペイシストラトスは、とても賢くてアテネにとっては良い独裁者でしたが、ペイシストラトス以後は悪い僭主政治が続いてしまいました。

そこで、抑圧的な僭主の登場を防ぐために、クレイステネスは陶片追放を始めました。

陶片追放とは、僭主になりそうな人を陶片に書き、得票数の多い者をアテネから10年追放する制度です。

地中海世界では当時紙が無く、陶片のような滑らかな物をメモ帳代わりに使う習慣がありました。

追放された者は犯罪者のように扱われた訳ではなく、追放から10年経った後には、政治活動を行うこともできたようで、とても民主的な制度と言えます。

また、ペイシストラトスは血縁ごとの部族制を辞め、住んでいる土地ごとに民衆のグループを区分しました。

貴族の血縁であるというメリットが薄れ、民主制の基礎ができたと評価されています。

⑤ペリクレス、青年男子全員参政権(民主政完成)(紀元前5世紀末)

将軍ペリクレスの改革によって、アテネの民主制は完成を迎えます。

以下、ペリクレスの改革の一例を紹介します。

①現代の国会のような会議が、年に40回程開催され、18歳以上の成年男子全員が参加できるようになった。

②裁判や評議会などの役職は、公平なクジ引きによって決まるようになった。

③アルコンと呼ばれる、一年任期のポリスの役職を、農民級にまで拡大した。

④下級の役人に給料を支払うようにし、貧民には観劇料を支給して民衆の指示を得た。

上記のように、ペリクレスの改革によって、当初は貴族に独占されていた政治でしたが、一般のアテネ市民も参加できるようになりました。

以上、アテネと民主制、都市国家(ポリス)についての説明でした。

ハナハナが参考にさせて頂いた本

まだ『読んでいない』、もう一度『読み返したい』方はこの機会にぜひ!⬇︎

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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